目次
はじめに 天下分け目の「草内・飯岡の戦い」
家康上洛と信長の政権構想
六月一日昼 堺
千宗易(利休)の茶会断念と津田宗及
六月二日午前 山城西岡
明智軍家康襲撃部隊の遅参
六月二日昼 河内飯盛山
本多忠勝の橋本索敵と「伊賀越え」
木津川渡河作戦と影武者穴山梅雪
六月二日夕刻 山城飯岡
筒井順慶と明智方の大和武士
六月二日闇夜 帝都 「複合謀反」の展開 羽柴秀吉・長岡藤孝の共謀
おわりに 天下人家康の戦いとマキャヴェッリの格言
天正十年(一五八二)六月二日未明、明智軍が織田信長の宿舎・本能寺を取り囲んだ。ほぼ同時に「光秀謀反」の急報を伝える伝令は織田・徳川双方から、徳川家康主従の宿舎があった和泉国堺(現・大阪府堺市)へ向かった。その後、信長の生害など情報は随時更新されていったことはいうまでもない。早朝、家康のもとに重臣の酒井忠次、石川数正、本多忠
結果、本文中(116ページ)で示す三つあった回避・逃亡ルートは明智方によって取手塞がれており、すでに袋の、本文中(116ページ)で示す三つあった回避・逃亡ルートは明智方によって取手塞がれており、すでに袋の
ところが、河内国飯盛山(大阪・生駒山地北端)付近で本国帰還案の成否を確認すべく偵察から戻った本多忠勝と京都から駆け付けた政商の茶屋四郎次郎は、帰還可能との報告を行った。そこで家康は「伊賀越え」による本国帰還を決断した。忠勝は、明智軍が上陸想定地である橋本湊(現・京都府八幡市)に未だ到着しておらず、山崎方面にも動きがなかったことで、家康襲撃計画が遅れている事実を確認した。しかし、完全武装の明智軍の来襲は時間の問題であった。忠勝はその場に残した家臣に明智軍の動きを見張らせ、発見した段階で狼煙をあげるように命じた。それはこの時代の伝達手段としては、常識である。
読者の皆さんの中で「草内・飯岡の戦い」(現・京都府京田辺市)を知っている人はいないに違いない。研究者でも明智軍と徳川軍の戦いがここであったことは初耳のはずである。草内は、国道三〇七号を枚方市方面から京田辺市に入り、木津川に架かる山城大橋の手前の西岸付近にある。また、飯岡は木津川沿いに草内の南隣に位置する。確かに天正十年六月二日(現在の六月末)の昼下りから夕刻にかけて起きたこの戦いは、ごく小規模なものであった。弓・鉄砲など飛び道具ももたず、甲冑も身に着けていない徳川の諸卒(護衛・雑用の侍)は二百余人であった。これに対して明智軍は完全武装であったが、それでも千人程度であったと思われる。しかし、この「草内・飯岡の戦い」は「山崎の戦い」「小牧・長久手の戦い」「関ヶ原の戦い」に勝るとも劣らない天下分け目の戦いであり、その歴史的意義も勝るとも劣らない。
飯岡でほぼ全滅した徳川の行列は尊延寺峠(現・大阪府枚方市)を抜けてしばし休憩した後、木津川の上流に位置する「藪の渡し」(現・京都府相楽郡精華町)方面に向かった。彼らは家康の影武者となった甲斐国(現・山梨県)の武将・穴山梅雪と小荷駄奉行・高力清長に率いられていた。もし、注意深くこの行列を観察したならば、堺を出発した時に比べて総勢は二割ほど減っていたことに気づいたであろう。
一方、「草内の渡し」から木津川の東岸にたどり着いた面々は、家康をはじめ、宿老の酒井忠次、石川数正、本多忠勝、榊原康政の他、石川康通、菅沼定政、高木広正、大久保忠隣、同忠佐、阿部正勝、本多信俊、牧野康成、久野宗朝、三宅正次、森川氏俊、渡辺守綱、服部正成、酒井重勝、松平康忠、天野康景、本多藤四郎などであり、その多くが後に譜代大名となった。他に伝令の武士・長谷川秀一、穴山梅雪の側近や小姓なども若干名いた。
また、家康の有力家臣の子弟である小姓たちも随伴していた。彼らの中には後に四天王に加えられた近江国佐和山十八万石の井伊直政(二十二歳)、出羽国山形二十二万石の鳥居忠政(十七歳)、下総国古河七万二千石の永井直勝(二十歳)をはじめ、菅沼定利、松平玄成、松下光綱、青木長三郎、小沢忠重、三浦おかめ(正重か)、内藤新五郎などがいた。彼らは江戸幕府創世期にその中心的存在となった。木津川を渡河した家康主従は、五十名前後であろう。
家康主従などが小舟で渡った木津川は、布引山脈を源流とし伊賀から南山城を経て淀川と合流する一級河川である。この日の木津川は前日の雨で増水していた。逃亡する側にとってそれは天からの恵みであった。また、季節柄、川辺の草は生い茂り、見通しも悪かった。冬枯れの川辺であれば、結果は変わったかもしれない。
俗にいう「伊賀越えの危難」とは、家康とその重臣・小姓たち数十名が「草内の渡し」から対岸(東岸)に渡る「木津川渡河作戦」のことである。いわば、これは二段ロケット作戦であった。成功のカギは、一段目のロケットである家康主従が増水した木津川を渡河し、二里(約八キロ)ほど先にある織田家奉行人・山口秀景の城(現・京都府宇治田原市)まで遁れることができるか、否かであった。そこからは織田家の支配地域であり、安全圏であった。
そして、二段目のロケットは、穴山梅雪と高力清長に率いられた二百余名の徳川家臣たちは囮である。彼らは最後の一人になるまで明智軍に抵抗して時間を稼ぎ、一段目のロケットから明智軍の注意をそらすことが最後に与えられた使命であった。
この戦いでの明智軍の損害は、大将格の一人を失ったものの軽微なものであった。しかし、明智軍にとっては取り返しがつかない敗北となった。たとえ家康主従に気づいたとしても渡河した後では、明智軍は増水した川を渡って追うことができなかった。これらの川舟は先乗りした本多忠勝が、「草内の渡し」周辺でかき集めたものである。明智軍に舟はなかった。
明智軍の最大の敗因は、直前に家康襲撃を指揮することになっていた総大将が行方不明となり、その混乱によって襲撃計画が半日遅れたことにあった。しかも、この総大将が消えたことで、明智軍には家康や重臣たちの顔を知る者がいなかった。明智軍は発見した徳川の行列を全滅させる他なかった。これに手間取って時間を費やしたことも災いした。
もし家康主従が全滅した場合、「桶狭間の戦い」で惨敗した今川氏、「長篠の戦い」で大敗した武田氏以上に事態は深刻であった。家康の嫡子となった長丸(秀忠)は四歳である。家康以下重臣や有力家臣の大半を突然失った徳川家は、解体されて領国の三河・遠江・駿河は北条氏康などに侵略されるなどして草刈り場になったに違いない。
動機はともかく、この期に光秀が決起した理由は明確である。それは信長と嫡男・信忠、家康と重臣たちを一網打尽にする千載一遇の好機が到来したからである。光秀がその気になれば、信長・信忠親子についてはいつでも討つことができた。しかし、信長の盟友である家康が領国にいたならば、弔い合戦のために進軍してくることは自明であった。光秀はその後の展望が描けなかった。「織田・徳川同盟」は「明智光秀の乱」を防ぐ安全装置として機能していた。
裏を返せば、家康の「伊賀越え」の成功は、光秀の破滅に直結した。家康主従の本国帰還を許せば、家康は毛利氏との戦い(「西国出陣」)のため待機していた当代最強の軍勢を率いて一ヶ月以内に戻ってくる。これは正しく信長の弔い合戦でもあり、しかも徳川の大軍は、織田家の北陸方面の総大将・柴田勝家と関ヶ原付近で合流することも予期された。光秀は「山崎の戦い」に勝利したとしても、東部で壊滅的な敗北を喫することは必定であった。
そこで、本書の副題でもある「なぜ光秀は家康を打ち漏らしたのか」という問題は、「伊賀越え」の意義そのものであるとともに、いわゆる「本能寺の変(明智光秀の乱)」の全体像を把握する上でも避けて通れない最大の疑問として立ちはだかる。「明智光秀の乱」について計画性はなかったと考える人もいるが、そうではない。信長と信忠を討った段階で光秀は用済みとなり、自他共に盟友と信じられた人物が、はしごを外した事実があったことを知らないからである。不覚にも光秀も全くそれを予期していなかった。この裏切りはもとより確信犯であった。
一方、家康は当事者の一人である。その全容を知りたいとの思いは、今日の歴史学者の比ではない。しかも家康は強制力を行使できる最高権力者であり、存命中に証人や証拠にも事欠かなかった。家康は「明智光秀の乱」も「伊賀越え」も天下および織田家簒奪を狙った二人の手品師のグランドデザインの中に組み込まれていた事実を知った。著名な手品師、マイケル・ウェイバーは「要は常に先を読まなければならない。本当に先を読めば、自分でそのゲームのルールを定め、他の人を従わせることができる」といったが、これは事前準備の重要性を語っている。
信長の有力家臣の一人にすぎなかった無位無官の羽柴秀吉は、「明智光秀の乱」の三年後に関白となった。秀吉は信長と織田政権の内情を知り尽くしていた。キングメーカー(意中のキング(関白)を擁立する一方、自らは表舞台に立たず、裏で大きな影響力を持つ人物)は誰なのか。それは当時、自他共に光秀とは「一体の侍」とされていた長岡(細川)藤孝であった。信長の存命中に秀吉と藤孝両者が水面下で共謀していたならば、信長と光秀双方をコントロールして両者を同時に破滅させることを意図した「複合謀反」の計画は実現可能であった。
果たして、実際に秀吉と藤孝は「明智光秀の乱」を前提にして織田家と天下の乗っ取りを計画していたのか。本書では信長存命中のフライング・スタート、秀吉と藤孝両者の事前準備の実態について、いくつかある極めて不自然な事例を具体的に考察していくが、それだけではケネディ兄弟暗殺事件と同じく迷宮入りしてしまう。そこで、「伊賀越え」の実態を再構成することで、連鎖する疑惑をつなぎ合わせていく。そして、最後に事前準備があったことを示す決定的な証拠(史料)を細川藤孝につきつけよう。この史料は、改竄前と改竄後のものが現存することから言い逃れはできない。
なお、本書で使用する歴史用語「明智光秀の乱」は、高校教師の故・武田忠利氏が政権転覆を狙ったクーデターを「本能寺の変」と呼ぶことは論理矛盾であるとして提唱した仮称である。「変」は水戸浪士が大老・井伊直弼を襲撃し暗殺した「桜田門外の変」のようなテロを意味する。また、関白などを歴任した同時代の公家・近衞前久は「明智乱之刻」と記している事実がある(『禁裏・公家文庫研究』第九輯)。「本能寺の変」の呼称が定着したのは近代以降であり、慣習的に使用されているにすぎない。その全体像を示す歴史用語も必要である。それは「天正十年六月政変」が適当かもしれない。
では、「伊賀越え」作戦で本国帰還を果たした全貌を、時間軸で区切りながら解説していくこととしよう。これは奇跡ではなく、奇術であったことから、秀吉と藤孝によって巧妙に仕組まれた家康救出計画についても説明しなければならない。それがなければ、家康主従の運命は、もっと堺に近い場所で影武者・穴山梅雪と囮の徳川家臣団の末路と同じ結果になっていた。
この計画がなかった場合、あるいは不発に終わったならば、徳川幕府など夢のまた夢の話となったことから、より実態に即して検証しその再現を試みることは、極めて重大な意味を持つことになる。なぜ秀吉と藤孝は信長と信忠を光秀に殺害させ、一方で、家康を堺から救出する必要があったのか。本著は、秀吉と藤孝両人が作り上げた脚本にもとづく叙述である。
歴史的な知識にかかわらず、あらゆる知識は開示された段階で優位性が消滅します。歴史家は関心のある人たちのために知りえる知識を最大限に提供してその判断を仰ぐことが要求されます。歴史認識においては論理的な思考能力こそが試されます。その点では研究者もその所見を提供される側も対等と考えます。国家原理の問題を考える上でも「明智光秀の乱」から「山崎の戦」の意義は極めて重大です。そして天皇と関白が一体化した豊臣政府が樹立された事実をきびしく問わなくてはなりません。文学的成り行きではなく政治的計画だからです。
〇実は1981年に説明されていた「本能寺の変」
〇実はその論理を理解できなかった「本能寺の変」
「本能寺の変」について歴史研究者は「分からない」と言います。そういいながらいろいろな説が出ていますが、どうせわからないのだからという前提のもとに発言しているとも思えます。
しかし「本能時の変」に至る経緯についてはよく分かっているかといえば、そうではありません。
歴史研究者の教科書『日本歴史大系』には「本能寺の変」は次のように説明されています。しかし驚くべきことに研究者達はその内容を理解できませんでした。彼らが理解を欠いた理由は一般に苦手な社会科学的な説明であり(トップは除く)、また専門分野が分かれる中世史と近世史の知識が要求されたからです。
(1)信長の家臣団統制の脆さを暴露し、織田政権は、未完のまま瓦解した。
(2)濃尾から近江にかけて領国支配を拡大した信長も、伝統的に寺社・本所(荘園領主)勢力が
強い畿内の支配は十分でなかった。
(3)室町幕府の奉公衆・奉行人でもあった土豪層は、明智光秀らの旧幕臣と結びついていた。
(4)織田政権がこのような在地構造(最新地域であり、かつ大寺院など伝統勢力の強い地盤)をもつ畿内を自己の権力基盤にすることができなかったことに、織田政権が自滅せざるを得ない要因がひそんでいたと思われる。
※上記該当箇所は三鬼清一郎名古屋大学名誉教授が執筆。論文は1981年「織田政権の権力構造」
織田政権の自滅⇒権力構造の矛盾
歴史認識の過誤⇒室町幕府滅亡期
「1573年(天正元)には将軍権力の回復をめざして信長に敵対した義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼし」とする高校教科書のフレーズ⇒誰も論証していない。
(1)は織田政権の自滅の要因が畿内統治の不全にあったという歴史認識を示す。ここで問題となるのは(2)の「室町幕府の奉公衆・奉行人」という箇所である。これは室町幕府の官僚組織を指す。(3)は、信長が義昭の亡命に同行した二十名ほどの「奉公衆・奉行人」を除いて大多数が織田政権に残る。これを統率していた人物が光秀であった。「山崎の戦い」における明智軍は「奉公衆」「奉行衆」「畿内国人」、守護大名京極・若狭武田氏など室町幕府の補完勢力で構成されていた。「奉公衆」は江戸時代の旗本と同様将軍のお目見えがかなう直臣。親衛隊・側近・使者等行政官僚。「奉行衆」は司法官僚。鎌倉時代から連続する十家ほどが世襲。「政所執事」(伊勢氏)が統率。
POINT:明智光秀は室町幕府の官僚層(奉公衆・奉行衆)を統轄。
(4)は織田政権とは「織田・明智体制」のことである。信長の畿内統治は光秀に丸投げした間接統治であったという実態を指摘。しかも天下支配の要衝坂本・亀山両城を信長は光秀に与えた。
信長の天下支配の土台=室町幕府官僚機構 統括していたのは明智光秀
毛利家外交僧安国寺恵瓊は10年前に織田政権の構造矛盾を指摘
信長の代五年三年は持ちたるべく候、明年あたりは公家などに成らるべきかと見及び候、左候て(そうなった)後、高ころびあをのけにころばれ候いずると見え申し候、
天正元年(1573)12月10日付小早川隆景・吉川元春重臣2名宛書状『吉川家文書』610号
これは予言ではなく具体的な説明が要求される報告!
三鬼氏と恵瓊の視点一致=室町幕府官僚機構を温存
織田政権=織田・明智体制=畿内(天下)支配構造
「織田・徳川体制構築」⇒「体制・制度防衛のための蜂起」
〇光秀は御供衆細川藤孝・部屋衆三淵藤英・上野秀政と並ぶ将軍側近。
〇将軍側近は代々足利家に仕える「奉公衆」が絶対要件!
〇光秀は今の審議官・局長級!例外なくキャリア高級官僚=「奉公衆」。
〇系図に進士から明智へ改姓とある。進士家は将軍側近!
阪神タイガースと室町幕府
色々ゴタゴタも同じ
室町幕府と阪神タイガースは勢力範囲は同じ五畿内周辺。
しかし250年続く室町幕府の看板を替えることは簡単ではない!
もともと細川藤孝や明智光秀は信長に足利幕府再興を懇願。
設定
阪神タイガースを
足利幕府
織田信長を星野仙一
明智光秀を田淵幸一
全体の流れは内紛絶えぬ阪神暗黒時代に中日星野信長へ
田淵光秀が「阪神再興」を哀願し全権監督を要請する!
田淵もヘッドコーチとして、うるさいOBたちをまとめ平身低頭し協力を約束!
めでたく
星野の力で阪神は絶対にありえないV10を達成!
※1568年から1582年まで14年後、阪神再興から名古屋支配へ政策転換。
星野は阪神に名古屋化を強制。名鉄タイガースへ改名を命ず!
縦ジマ廃止!ユニフォームはパノラマカー色と通告!!
阪神再建のため星野信長を招いた田淵光秀はどうなるか?
「話が違う」と「阪神奉公衆」(OBとマスコミ)とファン(畿内国人)は激怒。星野と「阪神奉公衆」に挟まれた田淵は星野に再考懇願!「何を今さら」と鉄拳制裁!万策尽きた田淵は星野へ叛乱を決意。星野嫌いで出て行ったオナー阪神義昭とも連携。
星野はなお田淵とは友好関係にあると油断し心斎橋の「ホテル本能寺」に宿泊。広島遠征に見せかけ田淵光秀は「阪神奉公衆」を率いて星野信長を襲撃。
※畿内周辺の室町幕府補完勢力と羽柴秀吉との戦いが
「山崎の戦い」⇒潰滅(阪神応援団消滅)
室町幕府の滅亡は天正10年6月13日!
偽文書「遊行三十一祖京畿御修行記」について
明智光秀について記されている「遊行三十一祖京畿御修行記」(ゆうぎょう・さんじゅういちそ・けいきごしゅうぎょうき)という史料はいわゆる「偽文書」の類ですが、史料批判をした形跡がないまま最近の著書に記されているので注意を要します。
あくまで一般論となりますが、大学関係の研究者といわゆる郷土史家の大きな差異として「史料批判」があります。古文書の読解では両者に大差がないにしても「史料批判」によって前者に優位性が生じます。「史料批判」とはありていに言えば、文書が原文書で真正なものか、後世に編集された史料、あるいは創作された偽文書に分類されるものか、区分することです。個々に甘い辛いはありますが、根拠は示さなくてはなりません。それによって論証の精度が保たれることになります。
実際の「史料批判」はそう簡単ではないのですが、実例としてこの史料の研究は勉強になるといえるでしょう。問題となる史料は昭和四十七年(1972)に「大谷学報」(五二ノ一)で楠俊道氏の校註によって発表されました。この史料の全文は大学の図書館のサイトから入力すれば、容易に検索され入手できます。
ところで「遊行三十一祖京畿御修行記という史料」は1972年まで存在していませんでした。楠氏が「題簽並びに内題を欠く」としているようにもともとこの史料には表題がないのです。そこで楠氏は「今仮に遊行三十一祖京畿御修行記と呼ぶことにする」として命名しました。したがって「○○という史料」とするような引用の仕方をしたとするならば、この史料の説明が求められるとともに、最悪でも引用文献欄で明示しなければなりません。それなしに「○○という史料がある」と記してしまうと本人が探し出してきた史料のように誤解されてしまいます。
この史料について楠氏は「この書は天正六年七月一日伊豆下田より海上より伊勢大湊へ渡り、それより伊勢・尾張・美濃・近江・京・大和をめぐり、天正八年三月大和当摩寺留錫(りゅうしゃく)までの一年八カ月に亘る遊行の記録である。撰者は不明。原本ではなく写本と思われるが、他に異本の存在は知られていない」としています。「その巻首に三州東照山蔵本の印が押されている」として写真を添付しています。
この史料の伝来について楠氏は「もと愛知県碧南市大浜称名寺に伝来されていたが、戦前現藤沢高等学校の長崎慈念氏が物置のすみに雑書と共に塵にまみれていたものを見出し住職から頂戴したもの」としています。しかし昭和47年に発表されたこの史料は長い間埋もれていました。
本来は、該当時期の時宗の高僧による真正の紀行文であれば、咽喉から手が出る史料のはずですが、引用されることは私の知る限りありませんでした。ところが、この史料は2014年に刊行されたある著書の中で紹介されてネット等で拡散したようです。
その著書には「写本のようだが、内容に不審な部分はなく、信頼できる史料とみられる」と記されています。しかしそれはよく調べたわけではなく印象にすぎなかったようです。こういった錯誤は流れの中での記述でもあり、誰にでもありえる話です。しかもこの著書には引用文献欄にこの史料の出典が明記されています。なお小和田哲男氏も引用しており出典は同じものです。
この史料は研究者から長年引用されず忘れ去られていたのですが、それには理由があったはずです。この史料は日記形式なので、もし創作されたような形跡が相当箇所あれば、史料的価値は書状形式の古文書と同じく、作者が存在する「偽文書」扱いとなります。
この史料にある遊行三十一代同念は時宗の上人であり、常陸江戸崎顕声寺で遊行上人を相続したとあります。この同念の京畿遊行が実際にあったことは、『御湯殿上の日記』の天正七年(1579)九月十三日に「ゆきやう(遊行)上人御れいまひる」とあることから一応確認できます。
ところが、この史料は天正六年(1578)七月十八日の条で信長について「天下副将軍武威をなせる織田弾正忠信長へ、ご案内あるべき上意」と記しています。
これは織田弾正忠時代の信長について1981年に示された「ただ、発給文書でみるかぎりでは、信長は、事実上の副将軍の立場にあったと考えられるのである」と喝破した三鬼清一郎氏の卓見と趣旨が一致することから真正な史料であれば是非とも引用したいところです。また「かの一頭林佐渡守早速披露のところ」として筆頭家老という意味と思われますが、林秀勝が信長に取り次いだとしています。秀勝が信長の申し次を務めることはあまり聞かない話です。まして天正六年という時期であれば相当違和感があります。
信長が弾正忠を名乗っていた期間は永禄十一年(1568)秋から天正三年(1575)秋までとされています。註は「当時は正二位右大臣」と指摘していますが、この年の六月に信長は右大臣・右近衛大将を辞任していました。したがって当時の真正な日記の類であれば「前右府信長」「前右府」などの表記でなければならないことになります。同時期の日記類であれば、数年前の官途である弾正忠と記すことは全く考えにくいことです。しかも一方で信忠の「三位中将」は正しい表記です。この史料の作者は官職などについて不案内であったことを示唆します。
この史料が作成された文書であることを示す具体的な内容の一つとして天正七年七月中に「久太郎(堀秀政)宿舎において夕食、堀親父七兵尉会尺(釈)種々取成しはべり、これも城よりの内儀かとそ」とする一節があります。なお『信長公記』にも秀政の父堀秀重については記されておらず、それどころか織田期において史料では見たことがない人物です。
堀秀重は太郎左衛門ですが、歓待を受けたとしながら「七兵衛尉」と誤記しています。この「七兵衛(尉)」とは織田政権では織田信澄を指します。原文には「七兵衛尉」と記してあり、それを作者が堀秀政の父秀重に変更して創作したとみられます。この作者は、堀秀重よりも七兵衛尉の方が織田家内では格上であったことを知らなかったと思われます。
さらに「武家には細川藤孝の廉中(室)取分そ信仰候き」として藤孝室沼田氏が時宗の信者であったとしています。日記の類で「細川藤孝」と実名を記し、「長岡」姓ではないことにも違和感があります。当時の表記は「長岡兵部大輔」が一般的といえます。
天正七年九月十七日の条に「左て近衛関白摂政殿参あれ以下の人々」とありますが、前久は当時、太閤あるいは准三后でした。
九月十一日の条に「勧修寺大納言」(かしゅうじだいなごん)と記してありますが、晴豊が権大納言となるのは、天正十年十二月二十七日のことです。同八年二月五日条においても「勧修寺大納言」としています。これだけでも真正の日記ではないことが明らかになります。
さらに決定的な記述は「薄(すすき)中納言」として薄諸光(もろみつ)を中納言としていることです。天正八年(1580)は従五位下式部大丞であり、生涯にわたり中納言どころか四位にもなっていないことからこれは勘違いではなく創作です。薄諸光は権大納言山科言継(やましなときつぐ)の子で薄氏の養子となり、兄は権中納言山科言経(ときつね)です。
またこの史料は「寛永七年(1630)庚午三月朔日書之畢」と文末に記しています。したがってこの史料は五十年ほど後になって記された編集史料ということになります。この時点ですでに何者かかが原本を膨らましたものか、その後、写本・伝承されている間に手が加えられている可能性も多分にあります。以上の内容から織田政権の研究者ならば、まず使用しない史料です。
本来はこういった矛盾点や史料の由来について研究者はより丁寧に説明したうえで紹介すべきです。楠氏は「高僧の伝記にありがちな誇張や創作も少ない」と記していますが、ないとは言っていませんし、実際に註で訂正しています。楠氏が気づいていない問題点も少なからずあります。もともとこの史料は短い紀行文であったものを時宗の教化宣伝用に加工・作成された文書とみなされます。他の研究者であればここで示した矛盾点以外にもっと指摘できる史料と思います。したがって作者が存在するこの史料を根拠に以下の論証は成立しません。
惟任方もと明智十兵衛尉といひて、濃州土岐一家牢人たりしか、越前朝倉義景に頼み申され、長崎称念寺門前に十カ年居住故、念珠(ねんごろ)にて、六寮(光秀に遣わした使者梵阿)旧情はなはだしきについて坂本暫く留め申さる、
この史料から「光秀が越前の長崎称念寺(ながさきしょうねんじ)、時宗寺院の門前で十年ものあいだ、牢人として暮らしていた」という内容を確定された事実とすることはできません。ある研究者はこの史料から内容を真正と判断した根拠、引用文献さえ示さずに「美濃国で土岐氏の一族として生まれた光秀は、何らかの理由で牢人となり、永禄元年ごろに越前国長崎弥念寺門前に居住した事実が確定するのである」と述べています。これまで述べてきたようにその典拠は二次、三次史料の類からのものです。研究者が言う「確定」とは実印のようなものです。そこまでの危険を著者がこのように入念には見ていない史料で冒す理由が全くわかりません。
明智光秀について記された内容も名も知れぬ時宗の僧か檀家であった作者が『明智軍記』あるいは民間の伝承などをもとに創作して書き加えた疑いが濃厚です。故意でなくとも「明智光秀の家臣某〇〇が長崎称念寺門前に十カ年居住故、」という話が三百年ほど伝承していく間に「家臣某」が抜けて印象的な明智光秀の伝承に転換するようなことはよくあることです。伝言ゲームと理屈は同じです。
このような史料を基に構成された著作は、他が良くても真相解明を大きく妨げます。
古萩筒茶碗 江戸初期 銘「恵瓊(えけい)」
H10.5cm W11.3cm
この茶碗変なとことろに釜傷ができたため形相がすさまじいものになりました。それを逆手にとって「恵瓊」としました。なお『安国寺』は漢作大名物茶入があります。
織豊期を代表する外交僧安国寺恵瓊は評判が悪いのですが、豊臣政府に肩入れしすぎたことが致命的でした。毛利氏も恵瓊にすべての罪をなすりつけました。恵瓊といえば、次の予言ですが、実際は報告です。
信長の代五年三年は持ちたるべく候、明年あたりは公家などに成らるべきかと見及び候、左候て後、高ころびあをのけにころばれ候いずると、見え申し候、
(『吉川家文書』、『大日本史料』十之一九、)
足利義昭は、天正元年(1573)七月に京都を出奔しますが、同年十一月に、恵瓊は毛利氏の外交担当者として義昭と信長を和解させるために堺で会談を行いました。
交渉は不調に終わり、その帰路、岡山へ立ち寄った際に、恵瓊は毛利元就の子で輝元の後見役であった小早川隆景と吉川元春に宛て長文の書状を送りました。それは天正元年(1573)
十二月十二日のことです。
歴史研究者の教科書とも言うべき『日本歴史体系』(山川出版社)では、いわゆる「本能寺の変」については次のように説明されています。執筆は三鬼清一郎名古屋大学名誉教授です。問題は他の研究者がまったくこの内容を理解できないことでした。
(1) 信長の家臣団統制の脆さを暴露し、織田政権は、未完のまま瓦解した。
(2) 濃尾から近江にかけて領国支配を拡大した信長も、伝統的に寺社・本所(荘園領
主)勢力が強い畿内の支配は十分でなかった。
(3) 室町幕府の奉公衆・奉行人でもあった土豪層は、明智光秀らの旧幕臣と結びついていた。
(4) 織田政権がこのような在地構造(最新地域であり、かつ大きな寺院など伝統勢力の強い地盤である)をもつ畿内を自己の権力基盤にすることができなかったことに、織田政権が自滅せざるを得ない要因がひそんでいたと思われる。
(1)は織田政権の自滅の要因が畿内統治の不全にあったという歴史認識を示しています。ここで問題となるのは(2)の「室町幕府の奉公衆・奉行人」という箇所です。これは室町幕府の官僚組織を指すことになります。この部分は「中世史」の領域となります。
(3)は、信長が義昭に同行して亡命した二十名ほどの「室町幕府の奉公衆・奉行人」を除いて大多数が織田政権に残ったのですが、これをまとめていた人物が明智光秀でした。それは「山崎の戦」における明智軍が「奉公衆」「奉行衆」「畿内国人」そして京極・若狭武田氏など室町幕府の補完勢力によって構成されていたことからも明らかです。
(4)は織田政権とは「織田・明智体制」のことであり信長の畿内統治は明智光秀に丸投げして間接統治して実態を指摘しています。
安国寺恵瓊も三鬼氏も織田政権の自滅としています。どういう事かというと、室町幕府の官僚機構を信長は温存してその土台の上に立っていたことです。室町幕府を信長が解体しようとすれば、その土台から崩れるという意味です。室町幕府が体制として滅亡するのは天正10年(1582)
6月13日の「山崎の戦い」です。なお教科書の記述は論証した人がいませんし、今後もないと思われます。
新装改訂増補版『明智光秀の乱』帯封と補論の内容
●本著のテーマ
信長は毛利の外交僧安国寺恵瓊が、事件の十年前に予言した通り、「高転びに転ぶ」ことになる!その権力構造の矛盾とは。前近代の社会は本人の個性よりも家の論理が優先される。光秀の家の論理とは何か。本著は「明智光秀の乱」の必然に導く。
〇基本的に内容はそのままにしてありますが、よりわかりやすくしてあります。前著は「尾池義辰」(オイケ・ヨシトキ)の仰天文書は校正がはじまった段階で見つかりこれをねじ入れたため校正が不十分となりました。400頁近くあって校正2回はタイトでしたが。読者の皆様からのご指摘もありました。謹んでお詫びいたします。なお前著では義辰は「ヨシタツ」としていましたが、改訂版は2015年の『石谷家文書』の石谷頼辰(ヨリタツ)と同じく「ヨシトキ」としました。義辰は関連する別の系図でも「ヨシトキ」となっていました。
●新史料と史料発掘
光秀に関する新史料が続々と紹介・発表された。2014年末に「米田文書」(コメダモンジョ)、2015年には『石谷家文書』(イシガイケモンジョ・吉川弘文館)と『明智一族三宅家の史料』(清文社)、2017年の「戒和上昔今禄」(カイワジョウムカシイマロク)などである。新発掘の事実も多々ある。光秀最期の地小栗栖は室町幕府奉公衆進士家領であった。足利義輝の娘は尼寺宝鏡寺で生存していた。明智光秀がそう名のって登場した時期は永禄十一年(1568)末ではなく、十二年に入ってから間もなくである。これらの知見はすべて本論の内容を補完することになる。
(補論は59頁追加されます。それにともない前書きや史料中心に十数頁割愛されています)
その1 明智一族三宅家の史料
「土岐系図 安国禅寺」は美濃源氏フォーラムでは知られていたのですが、この史料は三宅家に伝来した「山岸系図」と同じものであることが確認できました。初本で紹介した「明智一族宮城家相伝系図圖書」は進士氏から明智氏になったと記していましたが、奉公衆進士氏との関連性については、状況証拠に頼る他ありませんでした。この史料は「奉公衆進士家」と光秀の関係が直接記されています。「明智=奉公衆進士説」は江戸時代からあった説で「小林正信説」ではなかったことになります。
その2 足利義輝の娘と宝鏡寺
初本では義輝の娘について不明としていましたが、少なくとも一人は足利家縁の宝鏡寺の喝食となり無事でした。この宝鏡寺宛の光秀の書状があります。宛先はもちろん女性で親族と考えられます。しかも明智光秀文書の最初のものと思われます。将軍義昭の命を受けていることから光秀の身分はやはりその時点から将軍側近の奉公衆であったことになります。
その3 進士家領小栗栖
光秀が落ち武者狩りにあって哀れな最期をむかえた地とされる小栗栖は、実は進士領であったことが『厳助大僧正記』と「四手井家保宛松永久秀書状」などの一次史料から判明しました。小栗栖は、光秀あるいは側近進士作左衛門の領地の一つであり、もっとも落ち武者狩りにはあいにくい場所であったということになります。
その4 明智光秀初登場について
初本では明智光秀の登場時期を上洛後の永禄11年年末としていましたが、再検討したところ、12年に入ってからとなりました。したがってより唐突に大物奉公衆として光秀は登場したことになります。なお光秀の存在が確認された時期は次のその5『米田文書』にまでさかのぼることとなり、次が永禄12年1月5日の「本国寺合戦」となります(『信長公記』)。
その5 明智光秀の新史料「米田文書」
細川藤孝の腹心米田求政(コメダモトマサ)が作成した医学書に追記した文言から光秀の存在が永禄9年10月以前に近江田中高嶋城で確認されました。しかしながらこれはその出典について後から追記(メモ)したものです。そこには明智十兵衛と記されていることから天正3年7月に惟任日向守になる前に追記した内容となります。また朝倉家側の史料をからも細川藤孝や光秀周辺のこの時期の動きが推定できます。
その6 『石谷文書』と明智光秀
「石谷家文書」により、「四国問題説」が早速出てきていますが、この文書や関連研究論文を読みこむと長曽我部元親の背信行為が明らかになるのであり、むしろ光秀は元親によって、政権内での立場を悪くしています。また織田信孝の四国派兵の意味も変わってきます。
その7 妻木と近衛氏
早島大祐氏は、「戒和上昔今録」という重要史料を論文によってウエブ上で公開しています。この文書の中に光秀が自身の出自を語る文言が記されていました。妻木と近衛氏の密接な関係が示された重要文書です。その2と関連づけると、本文の内容とリンクしていきます。
PDF 小牧歴史講座 「織田・明智体制」の成立と崩壊 講演後一部改訂版 21ページカラー版
PDF 博士学位論文の内容及び審査の結果の要旨
『明智光秀の乱』後に出た史料について
①山岸系図と「明智=進士説」②進士氏領小栗栖
1歴史研究者としての経歴
2複合謀反の展開 「明智光秀の乱」と「天正十年六月政変の概観」
3「天正十年六月政変」と「国家原理」
4昭和天皇について
※『明智光秀の乱-天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』(里文出版、2014年)正誤表
校正について三校を予定していましたが再校のまま出版したことで大変ご迷惑をおかけいたしました。謹んでお詫び申し上げます。
『織田・徳川同盟と王権―明智光秀の乱をめぐって―』三鬼清一郎名古屋大学名誉教授書評、
岩田書院ホームページ http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho589.htm
「明智=進士説」は2001年12月に「明智光秀と制度防衛」(『郷土文化』)を発刊して以来、筆者の持論です。この学説は『大日本史料』十一之一518頁の「明智氏一族宮城家相伝系図圖書」を手がかりにしています。しかしながらこの系図にある「光秀が進士信周の次男である」との記載は、直接、室町幕府奉公衆進士美作守晴舎(しんしみまさかのかみはるいえ)と関連づけるものではなく、あくまで状況証拠を積み重ねて「明智=進士説」を導いたことになります。
ところが、2014年の『明智光秀の乱』(里文出版)発刊後に、美濃源氏フォーラム(井澤康樹理事長)という郷土史研究会の方々から「安国寺系図」の存在を教えていただきました。ただし、この系図は、「不許他見」とあり、それ以上の根拠が出典から問えないものでした。なお細川家十七代当主であった細川護貞(もりさだ)氏が『魚雁集』(思文閣出版)の中で次のように紹介しています。
―戦国武将の末裔―
熊本駅の近くに安国寺という禅寺がある。この寺の開山、明巖梵徹(みょうがんぼんてつ)和尚は明智光秀の息と言い伝えられている。梵徹はもと小倉にいたが、細川家が肥後へ入封された時、忠利(忠興三男熊本藩主、秀林院明智ガラシャの末子)は梵徹を誘って肥後へ行かしめんとした。しかし梵徹は肥後へ行くについて条件を出した。すなわち忠興夫人であった明智光秀の女、秀林院の菩提寺を建立するか、安国寺を建てることである。当時、キリスト教禁止であったから、秀林院を許さず、安国寺を建てて梵徹を招いた。
折しも2015年の年末に清文堂から明智一族『三宅家の史料』が出されました。この発刊によって「安国寺系図」とは「山岸系図」であることが確認されました。この史料では進士晴舎を長男とし、 光秀を四男としています。三男は三好長慶の暗殺未遂事件で処刑された奉公衆進士九郎賢光としています。晴舎の嫡子を「進士主女首輝舎」としていますが、これは明らかに奉公衆進士主馬頭藤延(しゅめのかみふじのぶ)のことです。晴舎の次男を進士作衛門(明智光秀→細川藤孝→前田家)としています。自説では光秀は晴舎の子進士藤延その人であるとしていますが、「山岸系図」では、光秀は晴舎の弟としています。
明智一族『三宅家の史料』について吉村豊雄熊本大学名誉教授は「島原・天草一揆と近世武家の軌跡をめぐる一級史料」としたうえで、本書のもう一つの価値は、本書の書名に示されているように、三宅家が明智光秀、光秀の娘である細川ガラシャに連なる家系だったことである。光秀が山崎の戦いに倒れ、ガラシャ玉が関ヶ原合戦の直前に非業の最期を遂げた時、ガラシャを叔母とする三宅帥(藤兵衛の幼名)が、そして藤兵衛を初代とする三宅家が、転変する歴史のなかで武家として維新期までどのような軌跡をたどったのか。一揆後、唐津藩寺沢家は天草領を没収され、藤兵衛の嫡男、三宅藤右衛門は主家を去り、牢人となっている。本書は、「明智一族」たることを矜恃とした、近世武家のドラマに満ちた一大史料集である」と述べています。
したがって「山岸系図」は活字化されて著書となり、熊本大学の学術的な成果になったことで使える史料となりました。しかしこの『三宅家の史料』に掲載された「山岸系図」には「安国寺系図」にあった進士一族に関する詳しい記載が記されていませんでした。ところが削除されていない重要な一項目が残されていました。
明智一族『三宅家の史料』593頁
光秀―女子井戸左馬介利政の室、
同新右衛門利親の母
この女子、実は進士美作守の娘にて、光秀の姪也、光秀の養女として利政に嫁ぐ、井戸は和州筒井の一族にて、山城国久世郡氏槙島の城主也、利親は関東御旗本に召し出さる。
この両系図は光秀の女子が井戸利政に嫁いだとしています。井戸氏は最後まで光秀に従った大和の国人であったことは史料で確認できます(『大日本史料』十一之一590頁)。なお井戸利政とは良弘のことであり、利親は覚弘(さとひろ)のことと考えられます。覚弘の母は「土岐氏の女」と明智氏をはばかっていますが、弟治秀の母は、明智日向守光秀の娘としています(寛政重修家譜)。「三宅系図」にあった「山岸系図」は進士氏にかかわる箇所を削ったものといえますが、この項だけはそのまま書き写された、と考えられます。したがって削られた箇所も「山岸系図」として使用できることになりました。
明智光秀の終焉の地は小栗栖であることが定説になっています。では直後の書状や日記などの基本史料はどのように記しているのでしょうか。六月十九日付高木彦左衛門宛て秀吉書状では「山科藪中」(『豊臣秀吉文書集』四三六)、同十七日条『多聞院日記』も「山科にて」としています。一方同じ興福寺の塔頭である『蓮成院記録』十四日条は「上の醍醐にて」。兼見卿記』も十五日条で「醍醐において」としています。
こういった記録の中でもっとも信頼できる史料は「明智くひ勧修寺(かしゅうじ)在所にて百姓取り候て出申し候」と記している勧修寺晴豊が記した『日々記』十五日条です。勧修寺家は山科勧修寺を建てた藤原高藤の子孫であり、甘露寺(かんろじ)・葉室(はむろ)・中御門(なかみかど)一門十三家の当主という藤原氏の名門でした。
その嫡流勧修寺晴豊自身が「勧修寺在所にて」と記した地名は勧修寺家の家領一覧にはないことから山科勧修寺の寺領と思われますが、直接の関係者が語ったことになります。他の史料の記載が伝聞であることからすると、当事者であったということになります。実際に山科、勧修寺御所内町に明智光秀の胴塚があります。しかし山科、醍醐、小栗栖といった地名はその地点から1キロから2キロ圏内であったことを考えると、誤差の範囲です。
小栗栖と石田(左に隣接)に関しては進士領であったことが、以下の2つの史料により判明しました。『太閤記』には「惟任(光秀)は明智勝兵衛尉、進士作左衛門尉、村越三十郎、堀毛与次郎、山本仙入、三宅孫十郎など召し連れ、伏見へ落ちゆく、それより小栗栖へ出てゆくところを」とあります。作左衛門は細川藩士から加賀藩藩士になっています。また義輝側近の進士晴舎の子とされています(『細川家記』)
『厳助大僧正記下』天文十八年(1549)十月、同月山科七郷所務(山科区一帯)のこと、三好方松永甚介(長頼)これ知る(領有する)、氏綱(細川氏綱)よりこれ給ふ云々、公方ご無足(領地を取られ)ご無念のいたり也、
石田・小栗栖進士の事、同甚介と今村源介両人これ知行となす
と云々、北小栗栖ことは違乱に及ばす、所務(所領管理)のところ相異なし、十二月末に至り種々違乱の儀、これあり、
「四手井((しでのい)家保宛松永久秀書状」(『戦国遺文三好氏編』3―1807)
ご状披見せしめ候、石田・小栗栖より、進士(晴舎)天文十七年まで知行分こと、十七年の傍事(ほうじ)(区切り)をもって
公方様(足利義輝)より 仰せ出され、
返上申し候あいだ十七年まで進士知行においては、
かの仁存じらるるべく候、十七年に進士存じられず候か、
格別の様にうけたまわり候、無案内に候へども、進士申せられ候はば、十七年まで知行候こと、紛れず候様に厳重に申さるることに候、この方の儀は、上意次第に候、この旨御分別候てご返事有るべく候、恐々謹言、
十一月九日 久秀判
四手井家保 これ進め候
経歴について 私は学士卒の一般社会人でしたが、学界の第一人者である三鬼清一郎名古屋大学名誉教授、中野等九州大学大学院比較社会文化学府教授(現地球社会統合学府長)二人から直接師事を受けました。論文審査にあたっては、服部英雄九州大学大学院教授(当時)兼比較社会文化学府長、学界を代表する存在である吉田昌彦・高野信治両九州大学大学院両教授に副査をつとめていただいています。破格の処遇をたまわった理由は、織田・豊臣・徳川それぞれの権力構造に迫るうえで中世・近世二つの分野を投合した論文内容を評価されたということになります。なお修士・大学院等は著作により免除されています。
2001年6月14日 織豊期研究会
第26回 藤田達生氏の報告会
「明智光秀の政権構想」初参加。
この時、書面で自分の考えを述
べる機会を得て三鬼清一郎名古屋
大学名誉教授に師事する。
『織田・徳川同盟の戦いと王権』
の原案をお見せする。論文を書い
て論集を発刊する旨指示。
2001年12月
「明智光秀と制度防衛」
『郷土文化』名古屋郷土文化会
第56巻第2号
2002年8月「織田・徳川同盟と天下布武の構造―信長の政権構想における家康の地位
についてー」
『郷土文化』名古屋郷土文化会
第57巻第1号
2003年3月「光秀没落の諸事情と国権の
移転的推移・王権の浮上」
『郷土文化』第57巻第3号
2005年5月
『織田・徳川同盟の戦いと王権―
明智光秀の乱―をめぐって―』
(岩田書院)
2005年12月 三鬼清一郎氏書評
『郷土文化』60-2
2006年 第15編第五号
『史学雑誌』
(2005年の歴史学界―回顧と展望 織豊期)
「大きな成果としては、小林正『織田・
徳川同盟と王権』(岩田書院)がある。本
能寺の変を基軸としながら相互規定的で
あった織田・豊臣・徳川それぞれの権力構
造に迫る労作」との論評を受ける。
2007年 九州大学大学院比較社会文化学府
にて論文審査開始。主査中野等教授
、 副査三鬼清一郎名古屋大学名誉教授、
服部英雄・吉田昌彦・高野信治各教授。
2011年8月31日 九州大学大学院比較
社会文化学府において博士(乙)
比文博乙27号の学位授与。
学位授与の要件 学位規則第4条第第2項該当
2012年『正親町帝時代史論――天正十年六月
政変の歴史的意義―』岩田書院にて発刊。
2013年『信長の大戦略 桶狭間の戦いと
想定外の創出』(里文出版、267頁)
2014年『明智光秀の乱 天正十年六月政変
―織田政権の成立と崩壊 』
(里文出版、398頁)
現在 九州大学の学位審査は理論だけではなく、実証性がきびしく課せられた。現在はこれを実際性にまで深化させるべく一般書に取り組んでいる。これまで専門的には中世と近世が分離されてきたが、これを統合したうえで国家原理の問題を明らかにしていくための一般書を執筆中。
明智光秀の乱』初版本正誤表及び修正
(太線は重要訂正)
序章
1 P95行目 出展⇒出典、
2 21p 後ろから四行目一五五八年⇒
一九五八年、
3 34p3行目番帳(役職の記された名簿) を ヌケ
第一章
1 わけではませんが ⇒わけではありませんが あり ヌケ
2 79p後ろから7行目書状移動改行 信長に執り任せ申す旨、存知すべきこと肝要候、
3 119p8行目 『トル⇒「織田文書」第二章
1 129p後ろから4行目『多門院日記』⇒『多聞院日記』、
2 146p7行目 森長可大津長治 ⇒ 森長可・大津長治
3 149p 下線付加「義輝の名を雲の上まであげる道(人生)・・・・
4 158p4行目 伊勢加賀守貞助、⇒。 、⇒。句点を〇、同5行目 千秋左近将監輝秀、⇒。 、⇒。句点を〇
6 同9行目 進士源十郎藤 ⇒進士源十郎藤延 延が ヌケ
7 159p後ろから4行目 慶阿⇒。句点を〇
8 163p後ろから6行目 摂津中原朝臣晴門(外様衆)⇒。句点を〇
9 164p2行目 青連院門跡義円 連⇒蓮
10 165p最後の一行 探さし⇒探し
11 177p7から8行目 これでは⇒これは 「で」をトルツメ
12 178p後ろから5行目 祖母の妹にあったことから⇒祖母の妹にあったことになり
13 179p1行目 見なさなれます。⇒見なされます 「な」を削除
14 181p9行目 弟周暠⇒周暠弟トルツメ、
15 199p6行目 ルビミス 石谷兵部大輔 ヘイブダイスケ⇒ヒョウブダイスケ、7行目 ルビ じだいふげんきき⇒ じだいふげんき
16 209p5行目 ルビ⇒金地院崇伝 コンチインスウデン 212p2行目のルビ削除
17 213p6行目 米田正義国學院大學教授⇒米田正義国学院大学教授 旧字体を変更
18 214p後ろから3行目 務めたた聖護院⇒ 「た」を一字トルツメ
19 229p五行目 知行→御知行、
20 230p9行目 九死に一生えたとすれば⇒ 一生をえたとすれば「を」ヌケ、
21.232p1行目『多門院日記』⇒『多聞院日記』
第三章
1 255p後ろから一行目、終止一貫⇒終始一貫 止 誤字、
2 261p後ろから7行目 聖護院門跡道増⇒せいごいん・・・⇒しょうごいん・ルビ、
3 264P5行目 後花園帝 ⇒ 後土御門帝 (ごつちみかどてい)
4 288行目ルビ 向後 きゅうご⇒きゃうご
5 321p後ろから5行目寛永三年(1626)⇒寛永11年(1634)229年間
6 322p後ろから五行目 信長が前右大将であった⇒信長が前右大将でもあった
7 335p3行目 安土城献立献立⇒ 「献立」トルツメ
8 345p8行目『多門院日記』⇒『多聞院日記』
9 360p9行目 家臣団とば ば濁音トル ⇒ 家臣団とは
10.362p 10行目下線部改行 この旨よろしくご披露にあずかるべきものなり
11 365p最終行 記されていせん⇒記されていません。「ま」ヌケ
12 358p 末尾引用文献 2は(訳文)毛利元就→毛利輝元
13 375p後ろから4行目 あったことには間違いありません。「に」をトルツメ
14375pの11行目女性でした⇒女性です その反面教師⇒この反面教師、
15 375p12行目 その自滅の要因があったことには⇒「に」をトルツメ
16 379p後ろから7行目 本多隆成
ルビ ほんだたかなり⇒ほんだたかしげ
複合謀反「明智光秀の乱」と「天正十年六月政変」の概観
歴史用語の問題
いわゆる「本能寺の変」は国家史にかかわる重大事件です。「変」という歴史用語は、「嘉吉の変」「桜田門外の変」など少数によるテロ行為を指していることから問題を矮小化しています。歴史用語の不統一性はかねてから問題となっていますが、改善されることはなく『日本中世史研究事典』(武田忠利「歴史用語と歴史教育」東京堂出版)は、「本能寺の変」は「明智光秀が政権を奪いとろうとして起こした軍事的叛乱」であれば、論理矛盾として「明智光秀の乱」(仮称)とするのが適当であるとしています。私はこの見解に従っています。
三鬼清一郎氏の見解
「明智光秀の乱」について三鬼清一郎名古屋大学名誉教授は、1981年に光秀の権力基盤が室町幕府の「奉公衆(将軍親衛隊、政治・行政官僚)・奉行衆(司法官僚)」であったとし、反乱の背景に彼らの存在があったことを示唆しました(『鉄砲とその時代』教育社「織田政権の権力構造」など)。三鬼氏の学説は織田政権の領域拡大が逆に矛盾を増幅し自滅したというものです。
また三鬼氏は2012年には、「(織田政権)の全期間にわたり室町幕府が存在したことの意味は大きい」として教科書では「明智光秀の乱」の10年前にあたる天正元年(1573)7月に信長が15代足利義昭を追放した時点で滅亡したとされる室町幕府が天正10年(1582)6月まで存続していたと明言しています(『織豊期の国家と秩序』青史出版)。
三鬼氏は畿内に何の基盤をもたない信長が強力な寺社・本所(荘園領主)勢力を統治することは容易ではなく、その畿内支配の実態は光秀を介して室町幕府の官僚機構に丸投げしていた実態を暗示しています。なお信長は京都に所司代・堺に代官を置いていましたが、軍事的な強制力はありませんでした。一方光秀は強大な軍事力を独自に保持していました。信長の河口堰
三鬼氏の学説は顧みられることはなく、朝尾直弘京都大学名誉教授によるイエズス会の史料を拡大解釈した「信長神格化論」が「信長全能論」にまで発展して学界を席巻しました。これには日本史の研究体系全体の根幹にかかわる構造問題が隠されています。
日本の中世史と近世史は天正元年7月に室町幕府が滅亡した時点で前後に分離されています。西洋史でいう近世とは中世封建制からルネサンス・宗教改革をへて市民革命にいたる期間のことであり、近代の序幕として位置づけられています。日本史もこの時代区分を適用しています。この枠組みをたとえ肯定したとしても、中世史の範疇にある室町幕府が滅亡にまでいたるまでの歴史的経緯については、近世史の歴史家は専門外となります。
もちろんこの結論にいたる実証的な論文などなく、今後もないと思われます。
この時代区分は専門分野の枠組みとして厳格に適用されています。中世史と近世史の研究者が相互に論文を引用することもまれです。近世史は「神信長」による「近世の創造」を捻出することで以後と以前は全く違ったものである、という観念を創出させる必要に迫られていたことになります。この時代区分は「信長」の河口堰ともいえるでしょう。
一方、三鬼氏は戦後、日本中世史の黄金時代を築いた東京大学出身であり、大学紛争によって名古屋大学にも佐藤進一、網野善彦(故人)といった学界を代表する中世史の先輩諸氏が在籍していたことから中世史についても深い理解がありました。近世史を専攻する歴史家にとって「奉公衆・奉行衆」はその範疇にはなく、理解に苦しむものでした。
三鬼氏は西洋史を日本史に当てはめる無理を批判して同時期に中近世の統合をとなえたものの、これまで築き上げた学界全体の構成の根幹にかかわる問題であることから容易に進展が望めるものではありません。しかし中世と近世の境界線上にあるいわゆる「本能寺の変」や「桶狭間の戦い」も半永久的に説明できないことになります。
織田・足利新旧武家政権の相殺
そこで「室町幕府の滅亡」の時期が何時なのかが、問題の根幹となります。鎌倉幕府の成立時期については、一般にはよく知られている源頼朝が征夷大将軍に任官した1192年(建久3)を含めて六説ほどあり、高校の教科書「東京書籍新選日本史B」にも併記されていますが、その理由は制度として幕府の確立時期が問題とされているからです。
いずれにしても「天下人Aが将軍Bを追放して二百数十年続いた幕府が滅亡した」といった次元の説明にはなっていません。言うまでもなく「鎌倉幕府の滅亡」は鎌倉陥落と京都の出先機関であった「六波羅探題」が物理的に消滅した1333年(元弘3)となります。
「室町幕府の滅亡」もその制度・組織が物理的に崩壊した事象であったとするならば、「奉公衆」「奉行衆」また畿内の国人など室町幕府旧勢力が結集して戦った天正10年6月13日の「山崎の戦い」の敗北と光秀に応じて蜂起した守護大名若狭武田氏・近江京極氏などが鎮圧されて畿内周辺の室町幕府の基盤勢力が崩壊した時点であった、とみなされます。
室町幕府体制下において「明応の政変」(1493)以来、将軍の出奔や追放は何度かあり、また義教・義輝など将軍殺害事件があっても畿内周辺の幕府の基盤勢力が壊滅したことはありませんでした。これは室町幕府の組織・制度が再生不能になったことを意味します。
大局的に見れば、天正10年6月2日から6月13日までの12日の間に「織田・足利新旧武家政権」が相殺されたことになります。当然のことながら「漁夫の利」をめぐる疑念が生じます。「承久の乱」「建武の新政」あるいは「明治維新」の政治過程を知っていれば、あるいは学ぼうとするならば、次に「王権の浮上はないか」と問うことは当然のことです。
この大きな政変を私は「天正十年六月政変」と呼びました。こういった事実関係を踏まえると、「明智光秀の乱」は「天正十年六月政変」の始まりにすぎなかったことになります。そして秀吉による「織田家簒奪」はこの直後から始まります。一連の事実経緯からすれば、それは天皇と関白が一体化した体制が構築されていく過程であったことが認識できます。
別に歴史家に聞かなくても政治的・軍事的な速度は準備に比例することは常識です。
共謀の構図
「天正十年六月政変」について、この計画が果たして可能であった否かをここで問うならば、その概略については以下のように説明することができます。
1光秀の盟友でもっともその周辺の事情に通じた室町幕府の御供衆(奉公衆の番頭・江戸時代でいえば老中格)であった細川藤孝は、同じく織田政権の内情を熟知し、すでに裏工作を進めていたとみなされる秀吉と水面下で連携していた。
2藤孝は光秀などの決起を後押ししながら乱の直後にはしごを外し、具体的には家康を逃亡させることで東部にも重大な脅威を生じさせた。藤孝の不参加と家康逃亡により光秀が味方となることを期待していた勢力は動かず、さらには秀吉や藤孝の離間工作もあり、極めて深刻な兵力不足が生じて当初の光秀の戦略を完全に破綻させた。
3秀吉は毛利輝元ではなく、輝元の叔父で外交を担っていた小早川隆景・安国寺恵瓊と単独講和を結んで彼らに兄吉川元春ら主戦派を抑え清水宗治を切腹させて体裁をつくろった。秀吉は家康が西進して光秀と開戦にいたる一月以内に戻れば、すでに美味しい獲物にまで転落した光秀を撃滅できる、という策略であったことから急ぐ必要があった。実際に家康の先陣は6月17日には尾張津島まで進軍していた(『家忠日記』)。
共謀者は他に信長の祐筆(秘書・代筆担当)楠長諳や信忠の側近前田玄以、連歌師里村紹巴、堺の商人津田宗及などもあげられます。机上の推考ではなく具体的な計画遂行のための実務では、偶然や資質などを計算に入れることはありえません。実際の問題への対処は現実社会で実績を積みあげてきた一般社会人の方に分があると言えるでしょう。
秀吉の関白職は五摂家の既得権益を取り上げた正親町帝の叡慮によって当初から予定されていたものでした。なお学界ではすでに石毛忠防衛大学校名誉教授・三鬼清一郎氏などの研究者により秀吉が将軍義昭から将軍職を譲られなかったことから関白となったという説は事実経緯のみならず儒学者林羅山によって作成された話として否定されています。正親町帝と豊臣政府
これまで慣例的に秀吉が「織田政権」を継承したという理解の中でその権力を「豊臣政権」と呼んでいます。しかし網野善彦氏が「建武政権」を「建武政府」と規定したように武家の棟梁としての征夷大将軍を介さずに秀吉が関白として天皇と一体化したこと、名目的には武家の「東国国家」を否定し統一国家体制(「公家一統」)を構築したとことなどから「豊臣政府」としなければその実態を見誤ります。豊臣政府は「王政復古」の一形態であり、「天正十年六月政変」の本質とはその成立過程に必要な策略であったことになります。
「豊臣政府」は、「帝都に対して奸謀を企て」(天正17年11月24日北条氏直宛条々)としているように京都を「帝都」と呼ぶなど、王朝が理想とする「延喜・天暦の治」を実現したとして秀吉は天皇周辺から称賛されています。天正2年(1574)に「公家一統」を信長に期待した公家三條西実澄の言質の意味が現実に示されたことになります。実澄は藤孝に「古今集」の解釈の秘伝である「古今伝授」を授けています。実澄を師と仰ぐ里村紹巴連歌会に集った藤孝をはじめ聖護院道澄・津田宗及・米田求政など陰謀の巣窟でした。
豊臣政府は正親町帝周辺の核心的利益を可能なものから順次履行しています。これは織田政権下では不可能であり、仮に実現を望むならばこれを倒壊させる必要がありました。
1朝廷の衰微を招いた室町幕府を廃止・織田・徳川同盟による新武家体制の否定。
2国家の統治権を朝廷に一元化。東国国家の否定。
3比叡山再興・日蓮宗開放・キリスト教の禁教。
4「天皇と関白の一体化」による武家階級の統帥。
秀吉がよりよい主人として正親町帝を選択することは、信長の存命中でなければ政治的に意味をなしえません。なお皇嗣であった誠仁親王は帝と同じ立場にはありませんでした。
維新政府も私と同じ歴史認識でした。明治天皇は慶応4年(1868)閏4月に関東親征の途中の大坂で豊国神社再興の沙汰を出しています。その中で秀吉が「武臣国家を抑えるに功ある」とした上で「今般朝憲復古」したことから秀吉をまつる豊国神社を再興するとしています。もちろん15歳の天皇の叡慮ではなく、孝明帝崩御後、明治天皇の摂政二条斉敬(なりゆき)を解任して天皇の影法師となった中山忠能(ただやす)あたりの所業と推察されます。
織田・徳川同盟と幕藩体制
家康は1600年(慶長5)9月15日の「関ヶ原の戦い」の後、同年中に12月19日に九条兼孝を関白とし五摂家に関白職を戻しています。武家を統率する関白の否定は正親町帝の路線の否定でもあることからこれが国家史における「関ヶ原の戦い」の意義となります。
豊臣政府は「正親町院崩御」「秀次事件」「秀吉死去」「唐入撤収」によって収束していきます。「関ヶ原の戦い」を経て豊臣氏は野党化しましたが、慶長20年(1615)5月の「大坂夏の陣」まで33年間も続くことになりました。この過程で前田・池田・丹羽・堀・森など生き残った織田家臣団は徳川氏に臣従することとなり「織田・徳川同盟」は「徳川・織田同盟」として再編されて「幕藩体制」を成立させたことになります。
1603年(慶長8)に家康の征夷大将軍任官により「東国国家」が復活します。豊臣政府のもとで天正15年(1587)12月に家康は大納言任官に付随して武家の棟梁が任じられる左近衛大将・左馬寮御監に任官し、同16年4月には義昭の将軍解官を受けて源氏改姓していました。そして同18年8月に家康は江戸に入府し関東八州を与えられていることからも笠谷和比古大阪学院大学教授が述べたように「豊臣関白体制下における事実上の将軍制」という歴史認識となります(『徳川家康』ミネルヴァ書房など)。これは豊臣政府の家康への譲歩を示し、秀吉の最終防衛ラインが「征夷大将軍」であったことを示しています。
室町幕府は京都に幕府を開き、「東国国家」には鎌倉府・古河府を置いて基本的には鎌倉・古河公方に統轄させました。これを「東西複合国家体制」と呼びます。当初江戸幕府においても関東は征夷大将軍秀忠が管轄し室町幕府の権限は駿府の大御所家康(公方)が総括していました。これは大御所(公方)秀忠と将軍家光の関係も同じでした(辻達也『日本の近世2』)。家光以降、大御所(公方)と将軍の二元政治はなくなりました。しかし3代将軍家光が寛永11年(1634)7月に上洛し14代家茂が文久3年(1863)3月に上洛するまでの229年間将軍の上洛はなく東国国家の王として君臨したことになります。
「国家原理」についてドイツの歴史家ランケは、「国家の原理という場合も、抽象化された思想ではなく、国家そのものの内的生命を考えなくてはならない」としています。
前近代における日本国の「国家原理」については、「東国国家」を基盤とした「社会的権力」にまで成長した武家階級によって創出された幕府が「国家的権力」としての王朝国家を占領国家として統制する国家形態である武臣国家と、この関係を消した国家形態としての「王政復古」があったことは、期間が短いことと「天正十年六月政変」の歴史認識が遅れたため軽視されています。この間に武臣国家内の主権が河内源氏・源氏足利・源氏新田徳川と交代しています。信長は家康と源平並立を試みましたが挫折しました。
「王政復古」について後醍醐帝は鎌倉幕府を滅ぼし建武政府を樹立してこれを一旦否定するものの、室町幕府は京都に幕府を移したことにより王権の二元化が生じることになります。室町幕府の混乱により「朝廷衰微」に直面し、自力救済の道を選択した人物が正親町帝でした。帝は当初信長による「王政復古」を模索しますが、結局、信長が武家社会に侵入を許した非人出身の秀吉を関白としてこれを統率させる手段に走ることになります。
秀吉はこの政府を維持するためには際限なき軍役を武士階級に課して戦争を継続する必要があり、天下統一後、「唐入」を断行します。一方秀吉は家康に妥協して実質的な「東国国家」を与えています。ここに「天正十年六月政変」のペテン的手法の弱みがありました。
江戸幕府は信長の路線を継承し武家独裁による幕藩体制を成立させる一方、「東国国家」の原点に戻りますが、明治政府は武家の本拠地に遷都して「東国国家」を消滅させました。こうして「国家的権力」によって「社会的権力」は圧殺されます。ところがこの「王政復古」は77年を経てアメリカ合衆国の占領国家となり、現在にいたります。
7・8世紀の王朝国家の発展について『日本歴史大系』は、「唐帝国の朝鮮進出と朝鮮三国の動乱という国際環境の緊張のもとで、それに対処しうる軍事的に強固な国家を構築せねばならぬという、外的契機が及ぼした力の大きさを否定することはできない」としています。歴史学の究極的意義とは時代性を正しく認識して普遍性を抽出することですが、この国家観と歴史認識は普遍とみなされます。また「国家的権力」は外的契機によって「社会的権力」による征服国家を克服しうるまでに浮揚することを示唆しています。
たとえば、建武政府の成立の外的要因としては鎌倉幕府末期の「元寇」があげられます。この脅威によって国家意識の高揚とともに「国家的権力」の浮揚があったことは認められます。また豊臣政府の場合は、未知との遭遇となる「キリシタン伝来」があり、明治政府の場合は周知のようにペリーの来航がありました。
確かにアメリカ合衆国は究極の「東国国家」であり、異民族ではあっても「社会的権力」を源泉とした国家体制といえます。これを「第四幕府」ととらえるか否かは別としても際限なき軍役を求める「国家的権力」に対して自律性が常にきびしく問われることは頼朝の時代と今も変わっていません。
「国家的権力」が「社会的権力」を圧殺した場合には、やがて時代の毒気によって総意が形成されることになり論理破綻が生じることで権力は暴走し、破滅にいたることはわかっています。国家とは「神無き神殿」のことであり、意思決定と責任の所在が不明確な理由は、神意ではなく見識を持ちえない総意にもとづくからであり、逃れえない集団的暴力を誘発する危険性を内在させていることは今さら論証するまでもないことです。
豊臣政府と国家体制の変遷
王朝国家
↓
鎌倉幕府(社会的権力)
第一次占領国家体制
↓ 元寇
建武政府
↓
室町幕府(社会的権力)
第二次占領国家体制
↓キリスト教伝来
豊臣(桃山)政府
↓
江戸幕府(社会的権力)
第三次占領国家体制
↓ ペリー来航 大日本帝国(前東京政府)
↓
GHQ 第四次占領国家体制
↓ 冷戦 日本国政府(後東京政府)
最近韓国の政治家が昭和天皇について発言しましたが、日本人の間にも大なり小なり天皇の戦争責任を問う声があるようです。これは戦争を終わらせたのだから、止めることもできなかったのか、という「スイッチ論」によることが多いようです。しかし実際には、それほど単純な問題ではありません。
この件に限らず莫大な情報がある中で歴史問題について大変厄介なことは、多くの人がインターネットからの情報と同じように最初の情報を真の情報と思い込むことです。歴史認識とか、軽々しく述べる人物も少なくありませんが、数冊以上、専門書を読んで斟酌しながら自分の意見を述べているとは思われません。それは知っているつもりの歴史認識にすぎませんが、そう思っている人も少ない現状があります。特に政治家に多いようですが、俎板の鯉が歴史について発言すること自体、ひどく気持ちの悪いことであり、権力者としての自覚に乏しいことは大変危険なことです。
日本史には今日現在にいたるまでグランドデザインというものはなく、歴史家が知っているのは専門分野とその周辺だけであり、それ以外は高校の教科書以上のことは知りえていない現実があります。その教科書も受験用に作られたもので、再吟味が必要な個所も少なくありません。私が少なからぬ歴史家諸氏から嫌われる一因は、門外漢でありながら大学院の飛び級や古文書については文盲でありながら論文だけで博士号を授与されたこと、あるいは学術的成果の恩恵を誰よりも受けていながら批判をやめないことだけではなく、折に触れて昭和天皇を極めて高く評価していることもあるのかかもしれません。
それでも今も私が知りえた日本史、あるいは世界史の範囲ではあっても大局的にみれば、昭和天皇については源頼朝や徳川家康と相並ぶ人物とみなしています。たとえば、昭和天皇とアドルフ・ヒトラーの違いは、敗北を重ねれば重ねるほどヒトラーはみすぼらしくその邪悪な権力を失っていきましたが、逆に昭和天皇の権力は強まり、正気に戻った声なき声を集めて終戦に導いています。天皇の強権的な政治介入と権力行使は、沖縄戦が終結しても戦争を続ける状態では正当化できます。
確かに昭和天皇はそれまでの莫大な犠牲者と損害をその時点で切り捨てたのかもしれませんが、それは忍びないことではあっても、断固その犠牲を生かして残りの国民と国土、そして京都と奈良を救ったことに対して、私は決してこれを当然視することなく最大の敬意を払っています。
私は昭和天皇が意図に反した現実を受け入れつつも極限状況下で、その都度、概ね正しい判断をなしえたと考えています。全くの手遅れの状況下で開戦の決定に逆らうなどの過誤を少しでも犯すようなことがあれば、誠仁親王や孝明天皇の二の舞になったことは明らかです。特に曾祖父の孝明天皇については我々歴史家などよりも真相を知っていたと思われます。先例があるということは当事者にとってこの上なく不吉なことです。
陸海両軍の軍務官僚勢力の相当数が観念し国民の総意ともいうべきものが天皇の真意について聞く耳をもった時期が、昭和20年8月に入って連合軍の警告がいよいよ重大化していってからだった、という理解になります。概ね全体をコントロールする確信が天皇になければ、それまで誰もしたことがない重い勅命は発せられません。
圧倒的な数の愚者に取り囲まれたとしても賢者は耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、果たすべき役割については、それが行使できる時を待つしかないのであり、それは断固たる決意と入念な準備がなければできないことです。
また昭和天皇の遺命と美徳が平成天皇に正しく継承された事実を見るにつけても私が目にした最大の偉人という認識は変わることはありません。私はもとより現代史の専門家ではありませんが、そこで生きて自身で見聞したという素朴な理由から昭和天皇が戦後敷いた路線を見極めながらその線(Sライン)を踏み超えてはいけないことを進言したいと思います。すなわち軽々しく足を出すな、ということです。
この「帰牛図」(絹本横47㎝縦43㎝)は室町時代の墨絵で名古屋市にある稲花堂の先代が存命中に田中角栄のような声で「半分なら買うか」といわれたので「買いましょう」といったやり取りが思い出されます。作者は前妙心明厳叟図焉とあります。先代は昭和63年に妙心寺で箱書きをしてもらったそうですが、この人物は不明とのことでした。妙心寺退蔵院には如拙の「瓢鮎図」があり、これは「瓢箪でナマズが押さえられるか」という禅の公案図です。この帰牛(帰家)図も悟りを得て牛の背中に乗りながら家に帰る図です。この絵には雲雀が出てきます。そこで春図となりますが、それ以上に悟りをひらいた帰り道で雲雀に気づく。これをどのように禅的にとらえるかを解いていることからこれも公案図なのかもしれません。
妙心寺といえば明智光秀です。光秀伝説は信用できないものがほとんどですが、妙心寺にある光秀の叔父で塔頭・大嶺院の密宗和尚が創建した重要文化財の「明智風呂」は信ぴょう性があります。この叔父の俗姓がわかると光秀研究は大きく進歩するでしょう。鐘は光秀腹心の斎藤利三の娘春日局が寄進したものとされています。
光秀の肖像画も岸和田市の妙心寺派本徳寺が所蔵しています。この光秀像は慶長十八年(1613)に三十三回忌にちなんで光秀の子とされ、妙心寺で得度した南国梵桂が描かせたとされる現存する唯一のものです。妙心寺第九十世蘭秀宗薫の賛も信ぴょう性を担保しています。これは「謀反人」として評価が固定されていた時代に遺族たちは、信長に仕える以前の光秀を描かせたものと推察できます。
光秀の謎はすべてその前半生にあることを如実に示しています。法名は「輝雲道琇禅定門」。光秀は親信長派の「室町幕府奉公衆」として突然登場しますが、その中でも部屋衆格(江戸時代でいえば御側用人)であったことを考えると、三好・松永両氏の襲撃を受け非業の死を遂げた足利義輝の時世の句が連想されます。
【飯川信堅・曽我助乗宛上野秀政・三淵藤英・明智光秀・細川藤孝連署】
御内書謹みて頂戴悉く存じたてまつり候、この表の儀、各申し談じ、いささかも油断を存ぜず候、・・・中略・・・・・・・此等の通りしかるべき様に御披露あずかるべく候、恐々謹言
卯月(四月)十九日日
(細川)藤孝判(御供衆)
(明智)光秀判( )
(三淵)藤英判(部屋衆)
(上野)秀政判(部屋衆) 飯川肥後守殿へ(申次衆) 曽我兵庫頭殿へ(申次衆)
『言継卿記』永禄13年(1571)正月二十六日に言継が有力な「奉公衆」に年始のあいさつに出かけた際の記録です。この記録によっても光秀の身分が「奉公衆」であったことが確認できます。
未下刻(午後三時二十分)より奉公衆方、年頭之礼に罷向、路次次第、竹内治部少輔
濃州へ下向云々、三淵(晴員)大和守・同(藤英)弥四郎〔部屋衆〕、一色式部(藤長)少輔〔御供衆〕、曽我(助乗)兵庫頭〔申次衆〕、明智(光秀)十兵衛尉濃州へ下向云々、(摂津晴門)摂津守〔政所執事〕、【下京】大和(孝宗)治部少輔〔申次衆〕、朽木(輝孝)刑部少輔〔御部屋衆〕酒有之、竹田法印・同治部卿〔奉行衆〕、荒川(晴宣)与三〔御部屋衆〕、真下(晴英)式部少輔〔三番衆〕、疋田弥九郎(御末の男)、父入道出合、
『年代記抄節』(『大日本史料』十之九、38頁)
元亀三年四月十七日、「南方御手遣也」(河内へ出陣)、公方衆は、細川兵部大輔(藤孝)、三淵大和守、上野中務大輔、明智、信長方は、佐久間右衛門(信盛)・芝田(柴田勝家)、この他、池田(勝正)、伊丹(親興)、和田(惟長)以下相向かう・以下略・・」
ここでは、光秀は「信長方」と明確に区分されて「公方衆」=「奉公衆」として認識されています。将軍と信長と両属するという研究者がいますが、認識不足です。
なお光秀が足軽衆というのは『永禄六年諸役人附』の曲解です。その項目に明智とありますが、これは後世の追記です。『番帳』は公文書なので明智十兵衛と記さなければなりません。その証拠に光秀と同格の上野秀政の項に「堀弥八郎、当代若衆也」とあり、義昭の男色の相手と記されています。事実と思われますが、今でいうと官報に「事務次官 セクハラ辞職」と記されているのと同じです。それをそのままコピーしたものです。多くの研究者も間違えていますので特にこの史料の後半部は要注意です。
永禄八年(1565)
五月十九日足利義輝辞世
五月雨は露か涙かほとどぎす わが名をあげよ雲の上まで
天正10年(1582)
五月二十七日愛宕百韻
なお(二十四日、二十八日説あり)
時は今雨が下なる五月かな
慶長18年(1613)
三十三回忌光秀法要
輝雲道琇禅定門