三八六〇 十一月廿二日尾池義辰宛細川忠利書状 (大日本近世史料『細川家文書』21)
一筆啓上せしめ候、信長様御所持の御甲・甲鑓御見せ成され、
四郎(津川辰珍)右所まで仰せ越され候通り承り届きつきて候、甲はすなわち
申し請け候、御志のほど別して満足仕り候、鑓は返進申し候程、
猶四郎右より具に御礼申し入らるべく候、恐惶謹言
十一月二十二日
尾池玄蕃様
人々御中
元亀3年(1572)4月19日将軍のスポークスマンである「申次衆」2名曽我助乗(すけのり)・飯川信堅宛に「これ等のとおりしかるべき様に御披露あずかるべく候」として出された将軍への披露状。差出人は幕府内最高職位の「御供衆」細川藤孝・次席の「部屋衆」三渕藤英、上野秀政と明智光秀が連署している。
これにより光秀は幕府内の序列では藤英や秀政と同格ということになる。「御供衆」は三好長慶や松永久秀なども任じられており、名誉職の意味合いもあるが、「部屋衆」以下は代々の「奉公衆」による世襲的地位による。
(奥野高廣『増訂織田信長文書』補遺83)
他に最近公開された『三宅家文書』も同様の書状形式に永禄13年(1570)4月20日の曽我助乗・飯川信堅・細川藤孝宛明智光秀書状がある。信長の朝倉攻めに参加した光秀が、義昭に「これ等の趣よろしく御披露候」との状況報告するにあたって三名宛てに出している。「恐々謹言」という書止めも上記と同じ形式である。
『信長からの手紙』熊本県立美術館
「永禄六年諸役人譜」にある明智は写本した人物が後世の人がメモだとわかるように、苗字のみを記して自身の私見として記録したもの。「柳澤」も同じで「柳澤元政」を指している。彼は毛利氏担当の「奉公衆」。「番帳」は幕府の公文書であることから「明智十兵衛尉」となる。現状多くの研究者が認識していない。なおこの「番帳」は前半が義輝、後半が上洛直前の義昭の将軍直臣を記載。この番帳の性格については黒嶋敏「光源院殿御代当参衆并足軽以下衆覚」を読む―足利義昭の政権構想―」(『東京大学史料編集所研究紀要』14、2004年)。
永禄8年(1565)進士晴舎・藤延親子は義輝に殉したとされている。晴舎の娘で義輝の愛妾小侍従も
処刑された。ところが進士家は存続し、足利義秋(義昭)の願文が「進士家世襲文書」残されている。
光秀の側近に進士作左衛門がいるが、細川藩仕官後、前田家で存続していた。「永禄六年諸役人附」の義昭政権の「奉公衆」に進士知法師がいる。架空の人物ではないが、光秀登場とともに消えている。
明智光秀の一族三宅弥平次こと明智秀満の子孫で熊本藩士明智一族三宅家が収集した系図に『山岸系図』があります。この史料が触れている最後の年次が万治2年なので成立期は1659年を上限とします。「嘉永三年庚戌(1850)六月 三宅藤兵衛」と記しているように三宅重存(みやけしげあり)が「この「山岸系図」を抜き書きし、ここに便覧に出させしは、日向殿(光秀)養実の疑いを弁じ、後の精竅(せいきょう)を待つ」としていることから江戸期の史料となります。重存はこの史料についての所見を書き留め「齟齬多ければ」として矛盾を指摘しています。
なお下記の部分は残念ながら『明智一族三宅家の史料』(清文堂、2016年)では割愛されています。これは明治14年に熊本安国寺が写本したとされている史料から引用したものです。また別に可児市で個人蔵「明智光秀公家譜古文書」の内容も同じであることが美濃源氏フォーラム関係者などの間では知られています。以下は光秀の子晴光の項に記されています。
…信周(不明)妻は明智玄蕃光隆(不明)の姉なり。信周子多々あり。嫡子進士美作守晴舎(実在)と云(ふ)。未だ部屋住(部屋衆という意味か)に将軍家に直勤す。次男山岸勘解由信舎(不明)と云(ふ)。三男進士九郎(三郎)賢光(実在・1551年に三好長慶の暗殺に失敗して斬殺)と云えり。四男乃(ち)明智光秀也(実在)。以下の子これを略す。右各母は明智光隆の姉。又信周の嫡子進士晴舎これを山岸の惣領とす。始終在洛せり。数子あり。嫡子を進士主女首(主馬頭・しゅめのかみ)輝舎(藤延)と云。進士作左衛門貞連(実在)と云。三を同六郎大夫貞則と云(不明)。四は養子となりて安田作兵衛国継(実在・天野源右衛門と改姓改名)。右母は伊勢兵庫頭貞教(貞教は不明。貞忠か貞孝のことか)の娘。しかるに晴舎嫡子主女首輝舎は惣領職となりてしかも弘治元年2月濃州揖斐(土岐氏)周防守光親の娘を娶りて妻とす(通説と相違)。◎ 青は事実とみとめられる。
※口伝を書きとめたと考えられます。当て字があり不正確なところがあります。世代が飛んでいるところもあります。進士輝舎の名は創作ですが、将軍直臣であることは認識しています。